東日本大震災のとき、私共の地方も南海トラフに繋がる千島海溝に接しており、震度五。
即座にテレビを点けると、東北地方が震度七以上の大地震で、関東から北海道に至る広範な被災地になるという。暫く見ていると、津波の発生が告げられた。東北沿岸で十m、そして我が日高沿岸でも六mという。我家の周辺は海抜五m前後なのだ。波の到達は二時間後。
すぐに近所に声を掛けた。十五分もすると、我家の前に二十人近くもの人間が集った。多くは高齢者、中には車椅子の方も。すぐに避難を始めた。地域一帯は狭い山裾で、そこに国道、鉄道、家屋群、海浜が平行する。避難先には山裾の中腹の丘に、北海道日高振興局の四階建ビルがある。そこが目当てだ。
三十分ほどもかかったろうか、全員無事に振興局ロビーに辿り着いた。するとすぐに職員が来て”貴方達はなんですか”と強い詰問。
ここは町の避難所指定を受けていないと言う。そこで一悶着。今日だけは・・・で一段落。
外へ出て海岸を見遣る。眼を凝らすと沖から盛り上ったうねりが寄せてきている。砂浜を越え、河口を渡って堰堤に強くぶち当っている。高く白波が立つものの、そこを越えてくる気配はない。
一時間程もロビーに留まっていただろうか。波も収まったようになり、またぞろ車椅子を押して来た道を引き返したのであった。
高田則雄
