改めて検証・分析すると、「やはり脳のバグなんだな」と思われてくるわけだが、つまり私は、自分では到底作れないようなおいしい料理を食べることと、親しいひとたちと楽しくしゃべることが、大好きなのだ。その時間を体験することに、至上の喜びと幸せを見いだす傾向にある。
そして、幸せと、さびしさ悲しさは表裏一体だ。このうえなく満たされ、「幸せだなあ」と感じた瞬間に、ちょっとしたさびしさや悲しさが心に去来したことが一度もないひとは、たぶんいないだろう。
「ここが我が人生における幸福の絶頂なのではないか」という、漠とした予感と不安。「私ごときがこんな幸せを味わっていいのだろうか」という、若干のうしろめたさ。「どんな幸せを味わったとしても、どうせいつかは死ぬもんな」という、なげやりな気持ちと諦観。そういうあれこれが混ぜあわさって、幸せを感じた瞬間に、さびしさと悲しさが忍び寄るという、脳のバグが生じるのではないかと推測される。決していやなさびしさと悲しさではなく、充足のなかに立ちこめる、薄ぼんやりとした靄のような、気配のようなものである、というのがポイントだ。
つまり、自意識過剰なのだろう(少なくとも私は)。「我が人生」とか「私ごとき」とか「いつか死ぬ」とか、もっともらしく言っているが、おまえの存在など、広大な宇宙に比べたらケシ粒を粉々に砕いたもの未満。小賢しいことを考えず、いいから集中して飯を食え。それですべては済む話だ。
しかし、粉々に砕いたケシ粒にとっては、宇宙の広大さなど認識しきれるものではなく、狭い世界のなかでそれでも一生懸命、「幸せだなあ。でもちょっとさびしく悲しいのはなぜ⋯⋯」などと思っては、センチメンタルな気分になっているのである。ああ、自意識。この度しがたく愚かで愛らしき心の働きよ。
問題は、私の場合、脳のバグが「楽しい食事の時間」に発動してしまうことだ。これが、「玉のような我が子が生まれた瞬間」とかだったら、まだ納得できる。ものすごく大変な妊娠出産を乗り越えた充足感、かわいい赤ちゃんに会えた喜び、「これからがんばって、この子を育てていかないとなあ」という緊張感と不安。そりゃあ、幸せが絶頂に達して脳がバグり、さびしさと悲しさも混ぜこぜになった、わけのわからない気持ちにもなるというものだろう。
だが、「料理がおいしく、会話が楽しくて、もう自分がどんな感情なんだかわからん!」って、いくら砕いたケシ粒といえど、幸せの絶頂のスケールが小さすぎないか。私はレストランで料理を食べながら、しばしば、「はわわ~、なんだか悲しくなってきた!」と申告するのだが、同席する親しいひとたちはそのたびに、「はあ!? 大丈夫?」とポカンとしている。そりゃそうだ。自分が大丈夫じゃないことだけは、なんとなくわかる。
おいしい料理を食べると、悲しくなる。この脳のバグ、これまで共感してもらえたためしがあまりないのだが、「わかる! 同志!」というひとも、きっと地球上に二十人ぐらいはいるはずだと、私はまだ希望を捨てていない。
著者:三浦しをん(みうら・しをん)氏
撮影 松蔭浩之