ここで話は転じますが、三浦しをんさんの小説『舟を編む』を読まれた方も多いと思います。新たに大きな辞書を編纂する苦労や面白さを、いろいろな個性を持った登場人物の生き方を含めて、すごく面白く、ときにコミカルに、ときに深刻に、ドラマチックに描いて読み手を魅惑して離さない筆力、展開力は、私には何とも羨ましく、辞典の中身が興味深くて次から次に芋づる式に項目を引いて、いつの間にか夜中になってしまった気分を思わせる読後感でした、以前に読んだ時の私には。
その私自身、ものを書く際に、あるいは物を読む際に、何か表現を確かめたり、類語を調べたり、あるいは人や言葉や事物の、来歴や変化、特徴などを確認するために、辞書や事典を引くことが多くあります。単語の意味などを調べるための言葉の辞書、ないし辞典、語源を知りたいときに引く辞典、各種の人物や出来事、あるいは発明発見などについて正確に知るために引く歴史事典や百科事典、それは私が単に記憶力があまり良くないだけの話でもあるのですが、またあちこちと飛びながらそれらを読んで、イマジネーションを膨らませることも大好きで、つまりは人生をつうじて実に多くの辞書・事典のお世話になって来たものです。
私の語学能力や記憶能力は若い頃からたいしたことはなく、残念ながら知れたものでしかないという自覚が私自身にありましたので、その分余計に、各種の辞書・事典類は、ほぼ座右の書物といってよいものでした。言語辞典に加えて百科事典の類を含め、自宅と大学の研究室にあった頼り甲斐のある仕事の相棒は、研究室の大きな書架2本分では納まらないくらいはあったのではないかと思います。今は、ネット上でアクセスできる辞書や事典の類も多くなりましたから、百科全書など書物形式で持たなければならない理由はなくなった、という人もおられるのですが、書物形式での良さは、ページをめくるさいの愉悦などという話は別にしても、ピンポイントの検索ではないために隣の項目や次ページの項目などに目が行って、そこに面白い内容を見出すとか、思わずそちらの方に読みふける、などという愉楽もありうるという点です。
しかし、これらの辞書に限りませんが、大学勤めの者につきまとう悩みは、退職して研究や執筆の場が自宅のみになった後、どこまでの書籍を置けるか、という悩みです。私の場合には、フランスで出された大きな、何冊もからなる百科事典や語学事典は、寄贈の形などで結局大学に残してもらい、自宅に置いてあった大きなものも、いくつかは古本屋に持って行ってもらうことにせざるを得なかったのでした。それでも今、拙宅の仕事場兼、資料類の置き場、兼、何と通路にもなっている部屋と、屋内にある物置部屋には、何やら辞書事典の類がいくつも置かれて、いわば座右の書となっています。私のように、書くものが歴史の話が主たるテーマですと、それらなしには仕事が進まないことも少なくないので、日仏英語の言葉に関する辞書を軸に、いろいろなテーマの小百科事典から百科事典、詳しい年表まで、確認作業用のツールがゴチャゴチャと。それでも、ゴメンなさいと間違えることも起こりますから、過去の話を主に扱ってきた歴史家というのも、因果な仕事人ではあります。
何だか話がぐちゃぐちゃしてきましたので、今回立てた表題に、最後は戻りましょう。もうじき冬至がやってきます。寒いのもともかく、暗くなるのが早いのがしんどいですね。いや暗いほうが良い、とおっしゃる方がいても不思議ではなく、有名な社会学者でいらした故見田宗介さんは、聞くところによると、仕事に没頭するために昼でも雨戸を閉めて暗くして仕事に集中したそうですし、世界的に有名であったフランスの中世史家ルゴフもまた、夜暗くなってから灯火のもとで書く方を好んだそうです。ルゴフは確かどこかに、そういう話をご自分でも書いていたように思いますが、私はご本人たちに確認しておりませんから、一種の伝聞による記憶ですが、こうした方たちにとっては、冬至の時節は、仕事も進む良い時期だということになるでしょう。しかし緑派の私にとっては、同じ「とうじ」なら、杜氏のつくる旨い日本酒を呑みながら、緑に囲まれた温泉にゆったりとつかる、冬の湯治の方が、格段に嬉しい。みなさんも同様では?
何でこんなダジャレみたいな話をわざわざ表題にまであげて、オチに書くことにしたのかというと、実は日本語の場合には、同音異義の言葉が実に多いのです。それは辞書を眺めてみれば歴然としています。ほとんど茫然とするくらいです。アルファベットで表記するしかない、私の知るヨーロッパ系の言語では、こうした同音異義語の数は極めて少数です。
おそらく日本語では、その形成の歴史からして、大和言葉に中国語や朝鮮語など外来の表現が大陸から入ってきて加わり、のちにはヨーロッパ系の言語からも表現が入り、それらが混ざりあいながら、漢字と平仮名とカタカナという三種類の表記が使われて、表音文字と表意文字とが合わさったような言語体系が成立してきたからではないか、というのが私の推測なのですが。おそらくこれは、世界に存在している多くの言語の中でも、実にユニークなのではないかな、と。どの言語が優れているかとか、良いか悪いか、と言った話ではありません。あるとすれば、日本語の場合、発音が同じなので取り違えが起こる笑い話とか、笑点のテーマ、ないしネタ、には多くなりそうですが。
さて、本当に、同音異義の言葉の多さを、日本語の生成に関する歴史的独自性の故と言っても良いものか、それは言語学者さんに確かめなければいけません。もしかしたら、私の検討は見当違いかもしれませんので。