だいたい吉祥寺に住まう

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2024.10.18 更新

それでも秋はやって来る[3]

 書いているうちに思わぬ方向へと迷い込んだので、話題を秋に戻しましょう。まあ天気もジェットコースターみたいですから、話が転じても許してもらいましょう。

 草木の生命力というのは、とにかく驚くべきもので、たしかに今夏のような酷暑で枯れてしまう、暑さや日照りに弱い草花もありますが、水さえ絶やさなければ、概して彼らは酷暑も乗り越え、とくに樹木の場合には大きく樹形を広げ、なんでこんなにボーボーに茂っちゃうの、と言いたくなるくらい繁茂する木も少なくありません。この私の好きな秋の時節には、草木は冬に入る前の最後の花を競いあい、果実を落として生命をつなごう、あるいは鳥や虫に運んでもらって広げよう、とするものです。

 私は小さい頃から草木が身の回りにあることが当然な環境に育ったこともあるのでしょうが、暮らすのには緑のない世界はとても耐えられない、と言う感覚を持っています。同じ環境にあっても、人によって感じ方や受け止め方はいろいろですから、こうした好みや価値感覚を、人さまに押し付ける気は毛頭ありませんけれど、草木がもたらす環境効果は、人が暮らしていくためのさまざまな条件が満たされる上で、極めて重要です。草木がコントロールできていない里山が荒れてしまえば、荒天に伴う崖崩れや鉄砲水、あるいは河川の氾濫に直結しかねませんし、野生の動物も、里に出没して人との共存を難しくすることにつながるでしょう。今の日本の各地で生じている現象の一端が、まさにそれです。

 また話は転じて横道に入りますが、ダマスカスの大学に留学していた日本人の大学院生に案内してもらって、20世紀末にシリアのダマスカスとアレッポ、そして砂漠のなかの小さなオアシス都市パルミラに行ったことがあります。ダマスもアレッポも、もとはオアシス都市ですが、いずれも市域が拡大されて大都市なので、都市内部に入ってしまうと、オアシス都市としての風情はあまり感じませんでした。それにしても、このかんのシリア内戦に伴う破壊でどうなってしまったか、共存して活気に満ちた生活をしていた多宗派の市民たちは、一体どうなっているのだろうか、気になることです。さて、小オアシス都市としての風情を残していたパルミラですが、有名な古代遺跡がすぐ近くの砂地の中にみごとに立ち並ぶ威容を見学しようと、そして発掘物を展示した博物館とその近くに広がるオアシス都市の生活空間などを体感しようと、簡単な昼食のあと友人と歩いて出た際に、大きなペットボトルの水がすぐお湯になってしまったのには、びっくり。訪ねたのは5月の半ば過ぎで、すでに、なんともひたすら暑いのは間違いないのですが、それだけでなく、砂漠の中のこうした緑のごくごく限られている世界で暮らすのは、自分には無理だなあと、心底から実感したのでした。この人類史的に貴重な古代遺跡が、のちに愚か者たちによって破壊されてしまったことは、それとは別に全くもって許しがたいことですが。

 もっとも、パルミラとは真逆な環境ですが、東南アジアで体験した熱帯雨林の分厚い緑と、強烈な水の力を感じさせる世界もまた、私には魅力的だがとてもきついな、と感じられました。木漏れ日が美しい落葉の林、ゆったりした照葉樹林、ほっておくとすぐに「雑草」が生えてボーボーになるけれども、それらを除去するのもさほどの苦労はない、四季の変化に富んだ、緑をめぐる日本の環境条件が、どれほど貴重なものかということを、私たちはもっと意識した方が良いだろうと思うのです。農水省、いや管轄は国土交通省なのでしょうか、特に林野庁は、もっと頑張ってくださいよ、と言いたくなります。「食の安全保障がほとんど、いやまったく実現できていなくて、アメリカからミサイル買ってどうする?」と言う話でもあります。兵糧攻めされたら、たちまちギブアップでしょう。熊や猪や鹿、猿などが、山から里に降りてきて農作物や何かを狙いに来るのは、一つには山が荒れてしまっていることが根本にあるのではないかとも、素人なりに感じます。草でも木でも、根元をしっかりさせることが根本的に大切なのです。おまけに愚かな人間が興味だけで外来動植物を輸入することを、国として放置しているようでは、保守政治家たちが念仏のように唱える愛国が聞いて呆れます。本当の保守にもなっていない。あれあれ、また堅い話になってしまいました。

 日本では古い時代から、萩やススキ、桔梗などが、「秋の名草」と言われるのだそうです。江戸時代には、萩の枝をくり貫いて遠眼鏡みたいにして「仲秋の名月」を眺めるのが粋なこととして流行った、と言う話も聞いたことがありますが、さてくり貫けるほど太い萩の木が普通にあったのだろうかと、不思議です。もっとも萩が「名草」として草の仲間というのも、ちょっと落ち着かないなあとも感じますが、「銘木」というのは良く耳にします。床柱などに用いる楓や檜などで、形姿や木目に独特の風情があるものをそう言ったりしますし、天井などに張る柾目の綺麗な杉や檜なども、そうですね。神社仏閣などで、古くからの由緒が伝わる巨木とか、姿形が独特で珍重される樹木は、同音異議ですが「名木」と呼ばれ、各地で目にできます。いずれも流石に年代を感じさせる立派な木々の姿には、人の心を打つものがあります。

 環境風土に適合した木造建築が基本であった日本では、草木にまつわる慣習や基本生活は、実に持続可能なスタイルだったと言えるでしょうし、姿形は変われども、その基本姿勢は、これからの時代にこそ求められるのではないか。灼熱地獄は、そうした方向に反して進もうとしている現代の人間が、墜ちるところなのかもしれません。

 ジェットコースターは、乗りすぎると気分悪くなりますから、この辺にて。続きは次の機会に。

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。