さて、この文章を書いている時期がまさにそれにあたっている「お盆」ですが、我が家では母親がクリスチャンだったことも関係してか、お盆の習俗には無縁でした。なんでお盆などというのだろうと、私には不思議だったのですが、齢を重ねたせいか分かりませんが、ここに来て気になりだして、大きな歴史辞典などをいくつかひっくり返してみました。
梵(ボン)語と関係あるのかなとは想像していましたが、どうやらやはりそうなのですね。ただし梵語(サンスクリット語)のボンではなくて、サンスクリットで「甚だしい苦しみ」を意味するウランバーナという語から転化してウラボンという音になった、という説が有力なようです。そして、成立の起源は特定されていないそうですが、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」という経典があって、その中に、釈迦の弟子の目蓮(モクレン)という僧侶がいて、亡母が死後、餓鬼道に落ちて苦しんでいるのを知り、救済のために供養し直した、というのが始まりだと、その経典にはあるのだそうです。まったくの素人の私では、経典まで遡ってみることは残念ながら難しい。ただ、長い人類の歴史の中で、人びとが、いつかは必ず来る避けがたい死と、どのように向き合って生きていたのか、という点に、若い頃から強い関心を持って来た私としては、関心を持つのがちょっと遅すぎたなあ、というのが正直なところですね。
いずれにしても、その家の先祖代々の霊を、死後の苦しみの世界から救済するために、旧暦7月15日の中元の日を中心にこの世に迎え、供物をそなえて歓待し、冥福を祈る、というのは、何かとても共感できる行事です。地域によっては、無縁仏を含めて霊を呼びまねく、というのが慣習だと言います。死を個人化して突き放さない、ということは、その地域の、共同的な生活のあり方を偲ばせるものがあります。宮本常一さんが名著『忘れられた日本人』の中で描いておられた世界に、通じるあり方でもあるでしょう。
中元というと、年末の歳暮と並んで、いまでは盆暮れの贈物の夏の分、という形でしか頭に浮かばないのが、なんともなあ、という気もしますが、この中元というのはもともと、中国は道教の暦に由来しているとなると、あれあれと世界は広がって来て面白い。道教の暦では、正月15日を上元、7月15日を中元、10月15日を下元としたのだそうです。そして盂蘭盆の捉え方とも共通しますが、死後に餓鬼となって苦行せざるを得ない死者が、中元の日ばかりは苦界から人界に戻ってこられる、その霊を供養することで慰める、そういう考え方と風習とが日本にも伝来して、仏教での盂蘭盆とも混ざり合い、いまにつながるような習俗が出来上がっていったようです。
なんと『日本書紀』の斉明3年(西暦657年)に、盂蘭盆会(うらぼんえ)を旧暦7月15日の日に設けたことが記されているのだそうで、これが記述史料上の初出で、じきに民間に広がっていった、と考えればよろしいようですね。七夕祭りと同様に、なんと日本史を古代から現代まで通貫するような行事とは。
かつて旧暦7月15日の満月は、「盆の月」といって、秋に入って初めての満月として、とりわけ先祖の霊を迎えながら眺める月でもあり、特別の思いをもって見上げられたと言われます。「浴(ゆあみ)して我が身となりぬ盆の月」。まだ暑い時節、しかしかつてはその暑さも、今のような粘つく感じよりも、はるかにやり過ごしやすかったのではないか、と想像されます。この句は、もちろん私のではありません。江戸後期の俳人、一茶の句です。