だいたい吉祥寺に住まう

ゆるく楽しく、
都市住まいをする大人のために

2024.08.20 更新

猛暑と暦と季節感[2]

 テレビの画面を通して選手たちの素晴らしいパフォーマンスを見ている間に、日本では立秋も過ぎて、暦だけでいえば秋に入ったことになります。現在の暦でいえば、8月13日が盆の入りで、8月15日、歴史の偶然でたまたま「終戦記念日」の戦没者慰霊式が行われる日が、ちょうど、家族で先祖の霊を迎え慰める盆の行事がなされる日に当たります。今では、お盆の期間は夏休みの中でも特別に、日頃は別々に暮らしている家族が故郷で一堂に会する機会ともなっているようで、年中行事化していますが、これが旧暦でいうと、7月13日から15日に当たるのだそうです。

 歴史的な暦のあり方はなかなか複雑で、時代と地域によって一様ではありません。日本では、1873(明治6)年に現行の太陽暦(グレゴリウス暦ないしグレゴリオ暦)に統一するまでは、いわゆる旧暦で、これは月の満ち欠けを基本として、一部を太陽暦で補正する、いわゆる太陰太陽暦です。新月を出発点として、満月は正確には14.8日目に当たるそうで、これがいわゆる「十五夜お月さん」。そこから新月に戻るまでがまた14.8日ですから、一カ月が約30日弱となります。しかしこれだけだと、地球の公転を基本とする太陽暦の一年とは合致しませんから、季節と月日は年によってずれていってしまいます。それでもいいじゃん、といって太陰暦に徹底しているのがイスラームの採用するヒジュラ暦ですが、しかし日本のように温帯に位置して、はっきりした春夏秋冬の四季を一巡とする社会では、季節と月日が年によってまるでずれてしまうのは、農林水産業はもとより、生活全般で不便極まりないでしょう。そこで、太陰暦を基本としながら、それを補完することが、時代によっていろいろなされたのでした。暦の話はとても込み入っているので、私にも書ける範囲は限られますし、しかも明治になって尺貫法や十進法による表記と計算に統一されるまでは、重さや長さや分量にしても、地域によって異なっていたわけです。計ること、計測全般について、ヨーロッパでも近代になるまでは概ねそうでした。

 日本では江戸時代でも、時刻表示は24時間方式ではなくて、「草木も眠る丑三つ時」といった表現で有名なように、1日を干支の十二支で分割して、さらにそれぞれの区分内を3分割する方式や、庶民生活では日出と日没を基準にして明け六つ、暮れ六つとして、昼間と夜間とをさらに6分割するという不定時法も、併用されていたのですから、複雑といえば複雑です。不定時法というのは、季節によって昼の長さや夜の長さが異なりますから、「今なんどきだ」といった場合の「いっとき」の幅も違っていた、ということです。ヨーロッパでも、これは同様だったわけで、12時間表記の機械時計が発明され、歯車の大きさやそれらの噛み合わせなど、その正確さを増してゆく製造技術の進歩と、時間統一の進展とが、近代化・工業化推進の鍵となった、という説が技術史家によって唱えられるほど、歴史の展開全体に大きく関わっていたのでした。

 さてさて、太陰暦を基本とした江戸期以前の旧暦の暮らしでも、季節変化とずれないようにする工夫の一つとして、一太陽年を24等分し、季節を示す「二十四節気」として配置することがなされていました。江戸期に作成され始めた歳時記などには、こうした季節の捉え方が反映しています。一種の天動説の考え方を中国から導入したといって良いように思えますが、太陽が地球の周りを通る道筋を360度の黄経として描き、春分、秋分は、昼夜の長さが12時間で等しい黄経0度と180度、夏至は90度、冬至は270度、という具合に配置する考え方だそうです。各季節への入りを示した節気の一つ立秋は、夏の終わりをしるす大暑のあと2週ほどに位置して、旧暦では7月7日頃、現在の暦では8月7日頃となります。あれ、と思いますね、暦や歳時記にあまり強くない私なども。7月7日は七夕のお祭りでは、と。

 そうなのです。牽牛星(わし座の首星アルタイル)と、織女星(こと座の首星ベガ)とが、天の川を挟んで一年のうち最も接近するように見えるこの時期に、出会い、結ばれる、という説話が中国から伝わり、日本では少し異なる形で独自に発展したと言われています。中国の説話では女性の方が積極的な主役で、織女星が見事に着飾って牽牛星の元に出向くストーリーだったそうですが、日本では、古くから女性は奥ゆかしい方が良いという感覚が強かったのか、それとも妻問婚の習いが反映したものか、私には分かりませんが、もっぱら牽牛星が織女星のもとにやってくるという話になったようです。万葉集の頃から、地上の恋愛を天上の星の話に託した「七夕歌」が、この説話にちなんで収められているそうで、私も今度読んでみようかと。

 ですから、随分古くから七夕祭りは、人びとの琴線に触れる行事だったと言えるでしょう。これが後世にまで伝わり、各家では、葉のついた竹を切り出したものに短冊をつけて、それに子供達が学芸の上達やいろいろな願いを込めた文を書いて、その成就を祈願する、という、とても潤い豊かな行事が、暦の変化した現代にまで伝わっているのは、嬉しいことに思えます。

 しかしそれが、本来は暦の上では秋口の行事なのだ、というのは、私は最近まで不覚にして頭にありませんでした。いやはや。

 戦後、私が物覚えのついた子供の頃にはすでに、東京では、夏が本格化する新暦の7月7日に行事が行われるのが、当たり前になっていたからでしょう。現代のこの新暦に合わせた七夕では、天の川を挟んだ二つの星は、まだ最接近する一月ほども前になる、ということでしょうか。天文観察に詳しい方に、今度確かめましょう。もっとも都会では、電気の灯りが邪魔をして、夜空から星が追い出されてしまった状態ですから、所詮見えないのですが。やれやれ。

 いまでも旧暦に合わせて、立秋の直前に七夕祭りを行う地域もあるようですから、由来からすれば、その方が正統だということになります。

記事一覧

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。