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2024.06.20 更新

パリ・オリンピックと大鯰[2]

 こんな話に思いをめぐらせているなかで、そもそもセーヌ川にはどんな大型の生き物がいたのだろう、という疑問が湧いてきたので、PCでフランスのサイトをいろいろ眺め、調べてみました。かつては、結構大型魚類などが記録されていたようです。フランスの河川には、かなり広域の平らな流域をもって蛇行しつつ、いくつもの河川と合流しながら流れているものが多く、セーヌ川もまた例外ではありません。

 そうした流れは、あるいは魚類の生息には向いているのでしょうか。その辺りは私にはよく分かりませんが、例えば、エステュルジョンという大型の魚類は、チョウザメの仲間だそうで、19世紀半ば、パリの少し下流にあたるマント・ラ・ジョリというところで、140キログラムもあるエステュルジョンがとれた、という記録があるそうです。まるでカジキマグロ並みでしょうか。他にも、グージョンという大型の鯉の仲間も、食用になるので釣り人の格好の、ないしは憧れの標的だったようです。そしてまた、これは魚類ではなく哺乳類ですが、セタセと総称されていた小型の鯨の仲間や、マルスアンと呼ばれた小型のイルカの一種などが、セーヌ川でも目にされた記録が19世紀末頃まではあるそうです。それらがどういう記録かまでは遡れませんでしたが、20世紀になると、工業化や都市化がさらに進展した結果、水質への悪影響が大きくなって、餌になる小型の魚類が激減してしまい、したがってまた、餌になる小型魚の少ない川では大型の魚も激減していった、という悲しいストーリーのようです。高度成長期の日本の河川でも、少なくとも一部で生じた現象です。

 ところが、です。そのような状況のなかで、20世紀末から唯一例外的に数を増やして、他の魚類を圧倒しているのが、ヨーロッパ大鯰だというのです。

 鯰といえば、水族館などでガラスの水槽の下の方にじっとしている、ナマズ髭を生やした、鱗のない魚としてしか目にしたことがないのが、私の体験ですし、多くの場合平均的な日本人にとっては、そうではないかと思いますが、どうでしょう。ドジョウやイモリなどは、少なくともかつては、田んぼやその近くの用水路などでは見かけたものでしたが。

 たしかに日本でも、江戸時代末期、1854(安政元)年11月に東海から九州までを襲った東南海地震に続いて、翌55(安政2)年10月に、江戸を直下型大地震が襲って推定1万人近くの犠牲者をもたらした、その大地震ののちに、この地震は地下に潜む大鯰が、この世の統治の乱れに怒って暴れたために起こったのだ、という世直し的な意味を与えられた「鯰絵」が、多色刷りの木版画で出回ったのでした。もちろん、こんな大鯰を実際に見た人がいるわけはなく、想像上の絵なのですが、実によく描けています。江戸の絵師たちの腕前が、いかに素晴らしかったかを示しているともいえますが、現実には、日本の川や沼などにいる鯰は、もっと小ぶりの水族館で見るものくらいだったはずでしょう。

安政江戸地震(1855年)と鯰絵(かわら版・鯰絵にみる江戸・明治の災害情報-石本コレクションから)

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著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。